三、草加
ことし元祿二[1]とせにや、奧羽[2]長途の行腳只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪[3]の恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若生てらばと、定なき頼の末をかけ、其日漸草加[4]と云宿にたどり著にけり。瘦骨の肩にかれる物先くるしむ。只身すがらにと出立侍を、帋子一衣[5]は夜の防ぎ、ゆかた·雨具·墨·筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるは、さすがに打捨がたくて、路次の煩となれるこそわりなけれ。
注釋:
[1]元祿二年(1689年),芭蕉時年46歲。
[2]“陸奧”和“出羽”之略,為今日本東北六縣。
[3]芭蕉借南宋魏慶之著詩話集《詩人玉屑》所載閩僧可士《送僧》詩中“笠重吳天雪,鞋香楚地花”句意,表旅次遙遠(yuǎn)艱辛。
[4]今埼玉縣草加市。距千住約10千米,為當(dāng)時奧州道上的第二個驛站。
[5]紙衣,用厚紙做的衣服,當(dāng)時用于旅行、防寒。